北朝鮮のミサイル落下、首相近くで爆破など、日本が緊張化、軍事化されつつあることについて
- 2023/04/16
- 10:53
最近、首相演説直前に爆発など、戦前のようなテロリズム的な動きも見られ、非常事態宣言に向けた不穏な動きが続いてきています。日本人が、歴史に学び、その動きの先の狙いをしっかり察知し、日本が戦時体制にならないように声を上げるべきです。戦前では、昭和5年、浜口雄幸らが金解禁を実施し、日本を大不況に陥らせ狙撃され、その後も、軍部が皇道派と統制派で対立し、皇道派が、統制派から主導権を奪い、腐敗した政治を立て直...
最近、首相演説直前に爆発など、戦前のようなテロリズム的な動きも見られ、非常事態宣言に向けた不穏な動きが続いてきています。
日本人が、歴史に学び、その動きの先の狙いをしっかり察知し、日本が戦時体制にならないように声を上げるべきです。
戦前では、昭和5年、浜口雄幸らが金解禁を実施し、日本を大不況に陥らせ狙撃され、
その後も、軍部が皇道派と統制派で対立し、皇道派が、統制派から主導権を奪い、腐敗した政治を立て直し、貧しい農民を救うといって、その部隊付き(陸軍士官学校卒だが陸大には入っていない)の青年将校たち22名が1400名の兵を率いて反乱し、2.26事件を起こし、首相や閣僚、軍幹部らを殺害しました。
1.26事件で高橋是清、5.15事件で犬養毅などの日本の経済を助け、戦争を回避しようとした優れた政治家達が、日本が金解禁や世界大恐慌により貧困に陥る中、農民を救うという理想に駆られた将校達に暗殺させました。
そして、これが大事ですが、それを煽った者として、井上日召(にっしょう)や、北一輝、西田税もいました。
血盟団を率いて要人テロを続けた井上日召らは、当時の職業軍人達を巻き込み、「一人一殺主義」で、鉄砲玉になった若者達に何も知らせず「貧しい農民を救う、腐敗した国家を立て直す」といって政財界の要人を次々と暗殺させました。)
このような、テロ、不況にまぎれた、戦争への煽りの動きに今後注意すべきと考えます。
最近の暗殺やテロにおいて、若い人が多いのも気になります。
(もちろん、最近のものはクライシス・アクターをつかった犯行の可能性もありますが、
このような動きが国中に蔓延すると大変ということです。日本を使って戦争を起こしたい人も、戦前の日本の戦争への流れをよく知っており、民族的にもそこに流れやすいと考えるからです。)
私は、最近の自衛隊の行方不明、昨今のテロなどに、似たようなものがあるのではないかと警戒します。
北朝鮮のミサイルが、今日本本土に落とされそうになる動きにとても注意が必要であると聞いています。
単なる、日本は何もできない論ではなく、下記のような世論形成が考えられていると思いますので、警戒の意味でも再掲します。
よく読んで頂き、日本が軍国化しないように注意して頂きたいと思います。
「いのちの地球よ永遠にあれ」(2011年4月発行)P60より
そういう流れの中で、北朝鮮を含め、あれこれ、かけひきがなされています。
北朝鮮がなぜあれだけ、やりたい放題言いたい放題できるか、それはアメリカと中国がかけひきにうまく利用しようとしているからに他なりません。北は操られているはずです。
アメリカも本気になればいっきに潰せばいいことです。
何度も「話し合いで」、といいながらやってきているのは、うまく利用しようという魂胆があるからです。
ヨンピョン島のこと(2010年11月23日に北朝鮮が韓国のヨンピョン島を砲撃し、韓国側4人が死亡した事件)もすごい利用価値があるでしょう。
韓国にひとつミサイルを落とすと、日本の国内事情はどうなるでしょうか。
尖閣でああいうことが起こった。ロシアが北方領土に因縁をつけてきた。北朝鮮がミサイルを撃って来た。
日本は自分の手で自分の国を守らなければいけない。
防衛だけでは話にならない。自分たちは、軍隊を持たないといけない。
先に攻撃をしなければならない、そういう議論にすぐいきつきます。
アメリカは、自分の国のお荷物である軍艦、特に空母なんかはぼんぼん売りつけるでしょうね。そういう流れがいっきにきます。それも啓示 です。そういう最悪のビジョンをずっと見ています。
(例えば、2003年、北朝鮮でテポドン発射事件の後、米国は日本や台湾にPAC-3などのミサイルを売りました。PAC-3命中率は9%以下と の報告があります。(1993年米議会会計検査院報告))
もし起こったらとんでもない戦争になります。それが目の前にあるんです。
(日本国民が恐怖に煽られ、軍国化、軍事行動にすることがあれば)
国家総動員体制について記載します。
週刊現代2016年06月14日(火)より 今後の憲法改定への賛成票獲得案について示されています
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48874?page=4
軍国化について、ナチスが、国会放火事件(自作自演と後に判明)の後、緊急事態宣言をし、国民の権利を剥奪した歴史が実際にありました。
そして、麻生財務相も憲法改正のやり方について、ナチスの手口に学んだらどうかね、と話していました。
数年国民にわかりにくいように徐々に制度を変え、まさに今そうなりつつありますので、
軍国化への移行への懸念について、下記記事を再掲します。
本当に、いまそうなりつつあります。
ぜひ、気づいた人から声を上げ、力ある人に伝え、周りにも共有、転送して注意喚起して頂きたいと思います。今のうちなら何でも言えます。
いちどこの体制に入ると、言えなくなります。
共謀罪、緊急事態宣言、そして国民が知らないうちに軍国化することについて
http://inorinowa2.blog.fc2.com/blog-entry-140.html
今、ほんとうに下記が進んでいる状況ですので、過去記事のリンクを示したいと思います。
ぜひ、お読みいただけたらと思います。
歴史に学び、一人でも多くの国民がこの危険性を知ることが大切です。
共謀罪は、「組織的犯罪集団」、「準備行為」を捜査機関の裁量で認定できるところが、国民を恣意的に逮捕できるしかけになっています。7月11日から施行されます。そして、この法律の大きなポイントは、本人は何もしてなくても、組織に属する者すべてを逮捕できるということです。
共謀罪の何が危険なのかについて(組織犯罪処罰法改正案について) 2017/03/03
http://inorinowa2.blog.fc2.com/blog-entry-126.html
そして、3,4年過ぎたからと忘れてほしくないのですが(2013年7月29日)、麻生財務相が、憲法について「ナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気づかないで変わったんだ。あの手口に学んだらどうかね」と、国民の反応を見るかのように発言しています。
緊急事態宣言条項の危険性について2016/03/22
http://inorinowa2.blog.fc2.com/blog-entry-35.html
ヒトラーは、1933年3月、内閣に立法権などを与えた全権委任法を策定し、国民の知らないまま憲法を変えて、独裁国家をつくりました。
ドイツでは、国会放火事件(後にナチスのでっち上げだったと判明)に乗じて『緊急事態宣言』が出され、数日中に、約5,000人が手続きなしで、逮捕・予防禁、行方不明になりました。
その後、(国民が萎縮したためと考えられますが)総選挙でこれまでと逆に約7割の票をナチスが獲得し、独裁国家となっていきました。
でっち上げの国会放火で、テロ対策、警備国家を形成し、国家が恣意的に国民を逮捕したこと、そしてドイツが独裁国家になったこと、その歴史が実際にあったことは、かつて同じように戦争に入っていった日本人としても、今、国民的に知る必要があります。(繰り返しますが、現在閣僚の麻生氏が、これを誰も気付かないで変わったんだ、と表現しています)
近年、教育、地方行政の統制強化が見られることについて 2017/02/13
http://inorinowa2.blog.fc2.com/blog-entry-122.html
上記リンクにも書いてあるのですが、今、年内に改憲案をまとめると安倍首相が宣言するなど、啓示でもあった動きが出てきています。現状への注意を上記リンクから抜き書きします。
本当に、今後の北朝鮮などでも想定されている「ショック・ドクトリン」(人々を恐怖に陥れ、一気に改革を行うこと)、地域、国の軍事化について、示唆的に触れられていましたので、紹介します。
地方創生や、教育、行政における生徒、職員評価などの動きには、日本を徐々に戦時体制下に移行させる動きに見えます。
過去記事でも書きましたが、日本政府は、北朝鮮などで9月(早ければ7月)~来年3月に紛争勃発、ミサイル落下などあれば、来年12月に、法律を一気に変えていく動きもありうるとのことですので、この動きに本当に注意です。
(「総力戦体制の正体」小林啓治著より)
(ジョルジュアガンペンさんの分析を紹介しながら、今の日本が「安全国家」に向かっていることを警告しています。)
冷戦終結後、気がつけば、日米関係を表現する言葉は、「日米安保」から「日米同盟」へと完全に転換し、新聞は何のためらいもなく「同盟」を認知していた。同盟」とは、実質的には軍事同盟を意味する。
今後、さまざまな回路を通じて、軍事的なものの社会的な埋め込みが進んでいくことが予測される。
すでに、行政では主として防災を通じて、経済では軍需への依存度の上昇によって、文化では映画やゲームを通じて、軍事の浸透は相当に進んできていると考えられる。
地域分権、地域主権などと言いながら、国家安全保障への協力を求められれば、そんなものは吹き飛んでしまうことは、1920年代から30年代の歴史を顧みれば、明らかである。ジョルジュ・アガンペンの小説は、法治国家から安全国家への転換を指摘している。
アガンペンは、安全国家の特徴として、第一に全般的に恐怖状態の維持(相手国の攻撃の恐怖を煽ることなど)、第二に市民の脱政治化(政治的に無関心にするという意味と思われます)、第三にあらゆる法の確実性の放棄(緊急事態宣言、周辺事態法などにより、これまで保障されていた人権、機関の権限を奪うことなどと思われます)、を挙げている。
日本の場合、すでにかなり以前から、「安心・安全」が政治・行政的スローガンになり、その分、平和、民主主義、人権といった概念の重要性が低下させられているように思われる。
アガンペンの言うように、安全国家は決して安心を約束するものではなく、恐れとテロルを維持し、警察国家を随伴する。
1930年代の日本国家との類似性に思い至らざるを得ない。無差別爆撃の容認と結びついた防空観念の普及、災害への対処と一体化した防空演習(訓練)、徴兵制を通じた国民の警察的監視と管理、講義国防から高度国防へと進んだ全体主義的な国防国家化、などの特徴を抽出すれば、現代国家を位置づける参考になるだろう。
(「総力戦体制の正体」より以上)
上記のことがが、まさに日本で、それも国民がほどんど気付かない形で行われいることは、みんなもっと明言して、注意しないと、気付いたら遅い、になると思います。
この記事は、政治経済を担当している知念敦による記事です。
日本人が、歴史に学び、その動きの先の狙いをしっかり察知し、日本が戦時体制にならないように声を上げるべきです。
戦前では、昭和5年、浜口雄幸らが金解禁を実施し、日本を大不況に陥らせ狙撃され、
その後も、軍部が皇道派と統制派で対立し、皇道派が、統制派から主導権を奪い、腐敗した政治を立て直し、貧しい農民を救うといって、その部隊付き(陸軍士官学校卒だが陸大には入っていない)の青年将校たち22名が1400名の兵を率いて反乱し、2.26事件を起こし、首相や閣僚、軍幹部らを殺害しました。
1.26事件で高橋是清、5.15事件で犬養毅などの日本の経済を助け、戦争を回避しようとした優れた政治家達が、日本が金解禁や世界大恐慌により貧困に陥る中、農民を救うという理想に駆られた将校達に暗殺させました。
そして、これが大事ですが、それを煽った者として、井上日召(にっしょう)や、北一輝、西田税もいました。
血盟団を率いて要人テロを続けた井上日召らは、当時の職業軍人達を巻き込み、「一人一殺主義」で、鉄砲玉になった若者達に何も知らせず「貧しい農民を救う、腐敗した国家を立て直す」といって政財界の要人を次々と暗殺させました。)
このような、テロ、不況にまぎれた、戦争への煽りの動きに今後注意すべきと考えます。
最近の暗殺やテロにおいて、若い人が多いのも気になります。
(もちろん、最近のものはクライシス・アクターをつかった犯行の可能性もありますが、
このような動きが国中に蔓延すると大変ということです。日本を使って戦争を起こしたい人も、戦前の日本の戦争への流れをよく知っており、民族的にもそこに流れやすいと考えるからです。)
私は、最近の自衛隊の行方不明、昨今のテロなどに、似たようなものがあるのではないかと警戒します。
北朝鮮のミサイルが、今日本本土に落とされそうになる動きにとても注意が必要であると聞いています。
単なる、日本は何もできない論ではなく、下記のような世論形成が考えられていると思いますので、警戒の意味でも再掲します。
よく読んで頂き、日本が軍国化しないように注意して頂きたいと思います。
「いのちの地球よ永遠にあれ」(2011年4月発行)P60より
そういう流れの中で、北朝鮮を含め、あれこれ、かけひきがなされています。
北朝鮮がなぜあれだけ、やりたい放題言いたい放題できるか、それはアメリカと中国がかけひきにうまく利用しようとしているからに他なりません。北は操られているはずです。
アメリカも本気になればいっきに潰せばいいことです。
何度も「話し合いで」、といいながらやってきているのは、うまく利用しようという魂胆があるからです。
ヨンピョン島のこと(2010年11月23日に北朝鮮が韓国のヨンピョン島を砲撃し、韓国側4人が死亡した事件)もすごい利用価値があるでしょう。
韓国にひとつミサイルを落とすと、日本の国内事情はどうなるでしょうか。
尖閣でああいうことが起こった。ロシアが北方領土に因縁をつけてきた。北朝鮮がミサイルを撃って来た。
日本は自分の手で自分の国を守らなければいけない。
防衛だけでは話にならない。自分たちは、軍隊を持たないといけない。
先に攻撃をしなければならない、そういう議論にすぐいきつきます。
アメリカは、自分の国のお荷物である軍艦、特に空母なんかはぼんぼん売りつけるでしょうね。そういう流れがいっきにきます。それも啓示 です。そういう最悪のビジョンをずっと見ています。
(例えば、2003年、北朝鮮でテポドン発射事件の後、米国は日本や台湾にPAC-3などのミサイルを売りました。PAC-3命中率は9%以下と の報告があります。(1993年米議会会計検査院報告))
もし起こったらとんでもない戦争になります。それが目の前にあるんです。
(日本国民が恐怖に煽られ、軍国化、軍事行動にすることがあれば)
国家総動員体制について記載します。
週刊現代2016年06月14日(火)より 今後の憲法改定への賛成票獲得案について示されています
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48874?page=4
軍国化について、ナチスが、国会放火事件(自作自演と後に判明)の後、緊急事態宣言をし、国民の権利を剥奪した歴史が実際にありました。
そして、麻生財務相も憲法改正のやり方について、ナチスの手口に学んだらどうかね、と話していました。
数年国民にわかりにくいように徐々に制度を変え、まさに今そうなりつつありますので、
軍国化への移行への懸念について、下記記事を再掲します。
本当に、いまそうなりつつあります。
ぜひ、気づいた人から声を上げ、力ある人に伝え、周りにも共有、転送して注意喚起して頂きたいと思います。今のうちなら何でも言えます。
いちどこの体制に入ると、言えなくなります。
共謀罪、緊急事態宣言、そして国民が知らないうちに軍国化することについて
http://inorinowa2.blog.fc2.com/blog-entry-140.html
今、ほんとうに下記が進んでいる状況ですので、過去記事のリンクを示したいと思います。
ぜひ、お読みいただけたらと思います。
歴史に学び、一人でも多くの国民がこの危険性を知ることが大切です。
共謀罪は、「組織的犯罪集団」、「準備行為」を捜査機関の裁量で認定できるところが、国民を恣意的に逮捕できるしかけになっています。7月11日から施行されます。そして、この法律の大きなポイントは、本人は何もしてなくても、組織に属する者すべてを逮捕できるということです。
共謀罪の何が危険なのかについて(組織犯罪処罰法改正案について) 2017/03/03
http://inorinowa2.blog.fc2.com/blog-entry-126.html
そして、3,4年過ぎたからと忘れてほしくないのですが(2013年7月29日)、麻生財務相が、憲法について「ナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気づかないで変わったんだ。あの手口に学んだらどうかね」と、国民の反応を見るかのように発言しています。
緊急事態宣言条項の危険性について2016/03/22
http://inorinowa2.blog.fc2.com/blog-entry-35.html
ヒトラーは、1933年3月、内閣に立法権などを与えた全権委任法を策定し、国民の知らないまま憲法を変えて、独裁国家をつくりました。
ドイツでは、国会放火事件(後にナチスのでっち上げだったと判明)に乗じて『緊急事態宣言』が出され、数日中に、約5,000人が手続きなしで、逮捕・予防禁、行方不明になりました。
その後、(国民が萎縮したためと考えられますが)総選挙でこれまでと逆に約7割の票をナチスが獲得し、独裁国家となっていきました。
でっち上げの国会放火で、テロ対策、警備国家を形成し、国家が恣意的に国民を逮捕したこと、そしてドイツが独裁国家になったこと、その歴史が実際にあったことは、かつて同じように戦争に入っていった日本人としても、今、国民的に知る必要があります。(繰り返しますが、現在閣僚の麻生氏が、これを誰も気付かないで変わったんだ、と表現しています)
近年、教育、地方行政の統制強化が見られることについて 2017/02/13
http://inorinowa2.blog.fc2.com/blog-entry-122.html
上記リンクにも書いてあるのですが、今、年内に改憲案をまとめると安倍首相が宣言するなど、啓示でもあった動きが出てきています。現状への注意を上記リンクから抜き書きします。
本当に、今後の北朝鮮などでも想定されている「ショック・ドクトリン」(人々を恐怖に陥れ、一気に改革を行うこと)、地域、国の軍事化について、示唆的に触れられていましたので、紹介します。
地方創生や、教育、行政における生徒、職員評価などの動きには、日本を徐々に戦時体制下に移行させる動きに見えます。
過去記事でも書きましたが、日本政府は、北朝鮮などで9月(早ければ7月)~来年3月に紛争勃発、ミサイル落下などあれば、来年12月に、法律を一気に変えていく動きもありうるとのことですので、この動きに本当に注意です。
(「総力戦体制の正体」小林啓治著より)
(ジョルジュアガンペンさんの分析を紹介しながら、今の日本が「安全国家」に向かっていることを警告しています。)
冷戦終結後、気がつけば、日米関係を表現する言葉は、「日米安保」から「日米同盟」へと完全に転換し、新聞は何のためらいもなく「同盟」を認知していた。同盟」とは、実質的には軍事同盟を意味する。
今後、さまざまな回路を通じて、軍事的なものの社会的な埋め込みが進んでいくことが予測される。
すでに、行政では主として防災を通じて、経済では軍需への依存度の上昇によって、文化では映画やゲームを通じて、軍事の浸透は相当に進んできていると考えられる。
地域分権、地域主権などと言いながら、国家安全保障への協力を求められれば、そんなものは吹き飛んでしまうことは、1920年代から30年代の歴史を顧みれば、明らかである。ジョルジュ・アガンペンの小説は、法治国家から安全国家への転換を指摘している。
アガンペンは、安全国家の特徴として、第一に全般的に恐怖状態の維持(相手国の攻撃の恐怖を煽ることなど)、第二に市民の脱政治化(政治的に無関心にするという意味と思われます)、第三にあらゆる法の確実性の放棄(緊急事態宣言、周辺事態法などにより、これまで保障されていた人権、機関の権限を奪うことなどと思われます)、を挙げている。
日本の場合、すでにかなり以前から、「安心・安全」が政治・行政的スローガンになり、その分、平和、民主主義、人権といった概念の重要性が低下させられているように思われる。
アガンペンの言うように、安全国家は決して安心を約束するものではなく、恐れとテロルを維持し、警察国家を随伴する。
1930年代の日本国家との類似性に思い至らざるを得ない。無差別爆撃の容認と結びついた防空観念の普及、災害への対処と一体化した防空演習(訓練)、徴兵制を通じた国民の警察的監視と管理、講義国防から高度国防へと進んだ全体主義的な国防国家化、などの特徴を抽出すれば、現代国家を位置づける参考になるだろう。
(「総力戦体制の正体」より以上)
上記のことがが、まさに日本で、それも国民がほどんど気付かない形で行われいることは、みんなもっと明言して、注意しないと、気付いたら遅い、になると思います。
この記事は、政治経済を担当している知念敦による記事です。
岡崎嘉平太とLT貿易について
- 2023/04/08
- 11:17
蔡英文氏訪米や、台湾でのシェルター増設、子どもまでが訓練に参加するなど、台湾有事に向けて、様々な動きがあります。緊張高まる台湾の今 戦闘訓練受ける小学生も 統一は「当然」「それは中国の片思い」世代間で広がる意識の差 それでも平和願う「砲弾」の包丁づくり4/4(火) 17:30https://news.yahoo.co.jp/articles/4971c6b09ce94f1f8476049439875b9267d176ca?page=2https://news.yahoo.co.jp/articles/4971c6b09ce94f1f8476...
蔡英文氏訪米や、台湾でのシェルター増設、子どもまでが訓練に参加するなど、
台湾有事に向けて、様々な動きがあります。
緊張高まる台湾の今 戦闘訓練受ける小学生も 統一は「当然」「それは中国の片思い」世代間で広がる意識の差 それでも平和願う「砲弾」の包丁づくり
4/4(火) 17:30
https://news.yahoo.co.jp/articles/4971c6b09ce94f1f8476049439875b9267d176ca?page=2
https://news.yahoo.co.jp/articles/4971c6b09ce94f1f8476049439875b9267d176ca?page=3
一方で、世界では、宗派の違いで数百年も争い続けたサウジアラビアがイランと国交正常化するなど、
世界情勢が変化しつつある中、日本も台湾有事の片棒を担がないよう、慎重に外交を続ける必要があります。
私は外交スタンスの参考としてとてもよい記事だと思いましたので、
サイトも探しにくかったので、全文掲載し紹介したいと思います。
こういう、井戸を掘り続けること、決して海外の人に対して威張らないことが大切だと思います。
どうか、特に、日本の為政者、官僚、官邸、政策決定者には読んで頂きたいと思います。
こういう誠実さや姿勢で、外交の土壌をつくったことを、ぜひ、今、リマインドしていただきたいと思います。
英考塾 不在文字、不離文字 というサイトから
2012年09月26日
岡崎嘉平太と周恩来。日本と中国をつないだ二人。
http://eikojuku.seesaa.net/article/294242919.html
「中国には、『水を飲むときには、その井戸を掘ってくれた人を忘れない』という言葉があります」
中国の元首相「周恩来」は、そう話し始めた。
時は今から40年前(1972)、戦争により国交を断絶していた日本と中国が、まさに国交を正常化させんとする、その2日前の夜のことである。それはすなわち、歴史的な「日中国交正常化」の前夜であった。
「まもなく田中角栄総理が中国に来られて、日中国交は正常化します。しかし、田中総理が来られたから国交が回復するのではありません。これまでの長い間、困難な時期にも日中間の友好に尽力された方々があったからこそ、正常化という念願が叶うのです」
日中国交正常化という「甘い水」が湧きいでたのは、それまでに汗を流して「井戸」を掘ってくれた人たちがいたからこそである、そう周恩来は言うのであった。
そして、その井戸を掘ってくれたと周恩来が感謝する人物、その一人が「岡崎嘉平太」であった。
◎暗黒の日中関係
「岡崎さんが今の中国と日本の様々な問題を知ったならば、間違いなく心配で、居ても立ってもいられなくなるでしょう」
岡崎嘉平太を心から尊敬するという、ある中国人はそんなことを言った。
岡崎の生きた時代は、日中関係が暗黒の時代。1894年の日清戦争、1937年からの日中戦争(第二次世界大戦)、そして日本の敗戦…。今とは比べようもないほど、日本と中国の関係は暴力的で険悪な状態が続いていた。
そんな交戦・断絶の関係の中、岡崎嘉平太は日中関係の改善に生命を賭け、そしてそれをまさかまさか、成し遂げたのである。
「隣りの国と、いつまでも敵対しているのはおかしい。主義の違う者の悪口を言って、蹴飛ばして済むか、そういうわけにはまいりません。いつかは友好親善をやらなきゃいかん。それは朝になれば東から太陽が昇るのと同じようなことなんです」
そうした信念を持っていた岡崎は、日本人と中国人がお互いを知り合うことが何よりも大切だと考えた。
「まず、相手を知る。とにかく行ってみる。向こうの人と直接会って、話をしてみる。そうすれば、戦争によって『カラカラに乾いてしまった感情』もいずれ戻ってくる」
生涯を通して、岡崎嘉平太は100回以上も中国へ足を運んでいる。まさに死ぬまで中国へ直接行き、中国人と会い、そして話をしてきたのであった。
◎中国人・留学生との出会い
岡崎嘉平太が初めて中国人と接したのは「中学時代」。日本にやって来ていた中国人・留学生との出会いであった。
親友となった中国人留学生の話はじつに面白い。中国の歴史、文化…、岡崎は大いに感銘を受けた。
ところが、戦争の時代は二人の仲を引き裂くことになってしまう。日本が中国と戦争を始めたため、国内には「中国人蔑視」の空気が充満することとなってしまう。
「オレはもう帰る!」
親友の中国人留学生はひどく腹を立てていた。「こんなイヤな日本だったら、来るんじゃなかった! 一日だっていたくない! 岡崎、君だけはオレに親切にしてくれたから、君だけに別れを言いにきた…」
そう告げるや、彼は本当に中国へと帰ってしまった。
多感な年頃であった岡崎は、この出来事に痛く傷ついた。
そして、それが生涯をかけた日中友好の道へと岡崎を駆り立てていく原点ともなった。
◎泥だらけの額
日本と中国が戦争をしていた間、岡崎には中国に8年間ほど暮らしていた時期があった。上海で国際銀行の理事を務めていたのである。
この中国暮らしの間、岡崎嘉平太の息子・彬(あきら)にとって、一生忘れられない出来事が起きる。
その事件は小さな出来事のはずだった。小学生だった彬が、中国人の子供にケガをさせたというのである。オモチャの空気銃で。
それを聞いた父親の嘉平太、とんでもなく怒った。あまり怒られたことのなかった彬は、すっかりビビってしまう。そして、そのまま嘉平太は何軒も何軒もケガをさせた中国人の子供の家を探し歩き、ようやくその子の家を見つけたときには、すっかり夜も更けていた。
いきなり土下座する父親・嘉平太、同じように彬にも土下座をさせて、泥んこの地面にガンガンと頭を打ちつける。
先方の親子はビックリ。日本の偉い人が、名もなき中国人家族に頭を下げまくっているのである。その額を泥だらけにしながら…。
「中国人を差別するな」。それが父親としての嘉平太が身を挺して示したことだった。
のちに敗戦で日本に引き上げることとなった岡崎一家、その後ろ姿に厳しい言葉を投げかける中国人は一人もいなかったという…。
◎貿易構想
1962年夏、岡崎嘉平太は日中間の大規模な「貿易構想」を提案。
「私の狙いは、中国にプラントを売って、その建設のため、日本の技師や労働者が中国に働きに行くことです。長ければ半年、少なくとも3~4ヶ月は向こうの中国人たちと一緒に働けば、戦争によってカラカラに乾いてしまった感情も戻ってくるかもしれません」
その年の秋、その案を携えた岡崎は、緊張しながら中国を訪問する。
その岡崎を待っていたのは、中国の周恩来首相。運命的な二人の出会いである。
周恩来は話し始める。「日清戦争以来、日本は我が国を侵略し、人民を傷つけ苦しめてきました。我々にはその深い恨みがあるのです」
なんとも手厳しい言葉、岡崎の身はますます堅くなる。ところが、周恩来の次の言葉は、岡崎の硬化していた心を一気に解きほぐしてくれた。
「恨みがあるといえども、中国と日本には2000年にわたる『友好の歴史』があります。戦争による不幸な歴史は、わずか数十年に過ぎないのです。我々は恨みを忘れようと努力しています。これからは中日が力を合わせて、アジアを良くしていこうではありませんか」
心打たれ、感極まる岡崎。すると周恩来、いきなり岡崎に問いかける。「岡崎さんはどう思われますか?」と。
岡崎は一瞬あわてるも、すかさず「刎頸の交わり」の故事を引き出した。一時は仲違いしていた二人が、友のためなら死も厭わぬ仲になったという物語である。
大きくうなずく周恩来。内心、岡崎の中国歴史古典に関する造詣の深さに感心し、そして共感していた。
この会談の成功を受け、岡崎の貿易構想は「日中総合貿易に関する覚書(LT貿易)」という形で現実化することとなる(1962年11月)。
日中両国間に正式な国交が結ばれる10年前、その道を切り拓くために、まずこの半官半民の貿易協定が結ばれたのである。
こうして、細いながらも初めて、両国間に和解の道が拓かれることとなった。
◎親友
「周総理と会っていると、偉い人と会って話しているような感じがしないんです。まったく、何十年来の友人と話しているような、そんな感じを醸す人でしたね」
のちに岡崎は周恩来の印象をこう語っている。
ある時、周恩来は岡崎に「歳」を尋ねた。すると、岡崎は自分よりも一つ年上だった。「じゃあ、あなたが兄だ」と周恩来。二人は兄、弟と呼び合うほどに、信頼し合うようになっいったのである。
こうした岡崎嘉平太と周恩来の親密さとは裏腹に、日本国内の状況は依然として厳しいものがあった。
まず、貿易協定に基づいて、日中双方に貿易事務所が置くことが決まったのだが、外務省は人材を派遣することを拒否。当時の日本は台湾の国民政府と外交関係を結んでいたため、岡崎が交渉を進める周恩来の中華人民共和国を国家として承認していなかったのである。
「いくらお国のためだって言ったってね、じゃあ、中国に行かされる奴はどうなるんだ? どうも、あんまり我が省(外務省)の利益にはなんねぇなぁ…」
次に岡崎が向かったのは通産省。やはり難色を示されるが、岡崎は粘る。通産省の渡辺弥栄司(やえじ)は次第に、岡崎の「先見の明」に感心していく。「これは、本物かもしらん…」。
岡崎の情熱にほだされた渡辺。思い切って人材を中国に派遣することを決め、のちに自らもスタッフの一員となる。
こうした貿易事務所に派遣された一人に、高向巌という人がいたが、彼は岡崎が口癖のように言っていた「事務はするな、中国人と触れ合え」という言葉を鮮明に記憶している。
「岡崎先生はね、ただ単に仕事をしてちゃダメだ。中国人と交わる、日本人が中国人を知る。中国人も日本人を知る。仕事での親しさではなく、『人と人としての親しさ』が大事だよ、と言っていました」
◎抗議
ようやく官を味方につけた岡崎嘉平太。しかし、国民からの抗議は激しさを増していった。
「もう、売国奴って罵られるわ、右翼団体から卵は投げつけられるわ、そりゃあ、大変な攻撃でしたね」と岡崎。
自宅にも脅迫電話が絶えず、巨大なトラックが何十台となく家を取り囲む。「岡崎っーー! 出て来ーーーーいっ!!!」と、ボリュームを目一杯にして。
警察官が家に泊まり込み、子どもたちはブルブルと震えていた。
岡崎の妻も覚悟を決めていた。母親としての彼女は怯える子どもたちに、こう諭した。「あんたたち、お父さんがもし急にいなくなっても、誇りを持ちなさい。お国のためになったんだから…」
抗議活動に揉みくちゃにされながら、岡崎は自宅を出て、空港へと向かい続けた。当然、周恩来との会談を重ねるためである。この激烈な抗議活動の中、岡崎はじつに18回も訪中している。
ある時、息子の彬は父親について中国へ行き、初めて周恩来と会った。その時、周恩来は静かに話しかけてきた。
「君のお父さんはね、たぶん自分のことを言わない。でも、私たち中国人は友のために生死をかけるような人を、本当に信頼するんだよ」
周恩来は続ける。「中国にいる私は、すごく安全だ。誰も私を殺そうとなどしない。でも、君のお父さんが日本に帰ると、ちょっと危ないんじゃないかな。それでも君のお父さんは、中日のために命を賭けてきたんだ。だから、私たちは信用しているんだよ」
◎唯一のパイプ
一部に猛烈な抗議を受け続けながらも、両国に設けられた貿易事務所は確実に機能していた。正式な国交がない中、それはあたかも両国の「大使館」であった。
日中間のあらゆる問題は、この貿易事務所を通して話し合われ、新聞やテレビの記者交換なども実現した。記者は常駐するようになり、日本人が中国を知り、中国人が日本を知るための貴重な情報を彼らが発信することになる。
時は共産主義下の中国、その情報は現在の北朝鮮のように、闇の中にあった中、少しずつその様子を日本人たちが伝え聞くようになっていた。
ところが、日中をつなぐこの唯一のパイプは、時の佐藤栄作政権により叩き折られそうになる。
周恩来の中華人民共和国と敵対する「台湾」を訪問した佐藤総理は、同じく周恩来と敵対するアメリカとともに、「中華人民共和国が『軍事的な脅威』である」との共同声明を発表。
中華人民共和国側が、それを「明確な敵視政策」と受け取り、日本に対して猛反発してきたのである。
◎粘り
時悪く、岡崎の貿易協定は、その5年契約が期限切れを迎え、新たな更新を必要としていた。
その交渉のテーブルは当然穏やかではない。中国側は佐藤政権を痛烈に批判。その誤りを文書で認めない限り、貿易協定の更新はできないと迫ってきたのである。
「決裂」だけは避けなければならないと心に決めていた岡崎嘉平太。粘りに粘り、議論に議論を重ねる。
その岡崎の胸中には、母の言葉が蘇っていた。「自分が譲れば事が丸く収まるときには、譲るものだよ」。子供時分の岡崎は「けんか太郎」、生一本で怒りっぽかった。母はそんな岡崎を心配し、繰り返し繰り返し「譲ること」を諭していたのである。
岡崎とともに交渉のテーブルについていた、田川誠一議員はこう振り返る。
「『切って帰っちゃえ!』って思うことが、あたしらには何度もありましたよ。その点、岡崎さんは練れてましたね。だから、大事なことは全部、岡崎さんにお任せしてました」
このパイプがいったん切れたら、二度とつなげられない、と岡崎は思っており、決して切ってなるものかと、粘り続けたのである。
その末に、ついに中国側も折れた。
過激な表現を柔らかく改めることにしぶしぶ同意し、妥協案を認めたのである。そして、交渉から一ヶ月後、なんとか日中覚書貿易という新たな協定を締結するに至る。
岡崎が身を挺して守った貿易協定は、辛うじて断絶という最悪の事態だけは避けられたのである。
しかし帰国後、岡崎は「中国に屈服した」という痛烈な批判にさらされることにもなる。
◎新たな風
逆風につぐ逆風の岡崎嘉平太。
その風向きが変わるのは1972年。最初の貿易協定から10年たった後のことであった。
この年、アメリカのニクソン大統領は中国を訪問。中華人民共和国は「国連」への加盟を認められ、国際社会への復帰を果たす。
このアメリカの政策変更を受け、当然日本もその潮目に乗ろうとする。しかし、日本政府には「ある懸念」があった。もし、中国との国交を回復しようとした場合、莫大な「戦争賠償金」を請求されるのではないか、という不安である。
日中唯一の窓口となっていた岡崎は、周恩来との会談の席上、戦争賠償金についての話を切り出す。
周恩来いわく、「今、日本に軍部があれば、我々は賠償金を請求したでしょう。しかし、もう日本に軍部はありません。そんな時、もし、我々が賠償金を請求すれば、同じく軍部に苦しんだ日本国民に負担を背負わせてしまうことになります。ですから、私は賠償金は取らないほうがいいと思います」
中国が国交正常化の条件として、戦争賠償金を持ち出すことはないという岡崎の貴重な情報は、日本を一気に正常化への道へと押し進めた。
1972年7月、中国で不人気が極まっていた佐藤内閣に代わり、田中角栄が新政権を発足させた。そして、その2ヶ月後には、中国への訪問が決まったのである。
◎ささやかな食事会
もはや、日中国交正常化は時間の問題であった。岡崎も自分の役割を一つ終えたと感じ、自宅で静かな日々を送っていた。
すると、そこに一本の電話がかかってきた。それは周恩来の命を受けた金光貞治からの電話であった。周恩来は、日中国交正常化が決まるその日に岡崎が招かれていないことに気づき、すぐにでも北京に来て欲しいと金光に頼んだのである。
電話口の岡崎、静かにゆっくりと「あぁ……、恐縮です……、恐縮です……」とだけ繰り返した。この短い言葉には、岡崎の喜びが噛みしめられていた…。
田中角栄総理が中国を訪問する2日前、周恩来は岡崎をもてなすために、一卓だけのささやかな食事会を開いた。
一言話したいと立ち上がる周恩来。「中国には『水を飲むときには、その井戸を掘ってくれた人を忘れない』という言葉があります」
「まもなく田中総理は中国に来られ、国交は正常化します。しかし、その井戸を掘ったのは岡崎さん、あなたです」
岡崎嘉平太と周恩来が初めて出会ってから、およそ10年。
岡崎が日本から引っ張ってきた「細い糸」は、いままさに、国と国とを結ぶ「太い絆」となって結実しようとしていた。
1972年9月29日、戦後27年目にして、ついに日本は中国と正式な国交を開くに至る。
◎友の死
それからわずか4年後、周恩来は78年の生涯を閉じる。死因となったガンが発見されたのは、奇しくも日中国交正常化が叶ったその年であった。
日本でその悲報を知った岡崎。その時からずっと口をきかなくなり、食事もノドを通らなくなってしまう。
「お父さん、かわいそうだった…、かわいそうだったよ…」、そんな言葉を息子の彬さんは母親から聞いた。そんな言葉を今まで聞いたこともなかったのに…。
しばらくして、岡崎嘉平太は周恩来の故郷、江蘇省淮安市の生家を訪れる。
その生家の一画にあった「井戸」。その井戸端で岡崎は涙をためていた。ずっと佇んだまま…。
「周総理、あなたこそ日中友好の井戸を掘った人だ…。今わたしたちが飲んでいる日中友好という水は、あなたが掘った井戸から湧いてきた水なんです…」
◎雨中嵐山
日中国交正常化が成った時、周恩来は「これからもずっと中国に来てください」と岡崎に声をかけていた。
その声に応えるように、岡崎は老齢になっても精力的に中国を訪れ続けた。そして、中国へ行くときは決まって「初めて中国に行く人」を日本から連れて行った。それは、少しでも多くの日本人に中国人を知ってもらいたい、という願いでもあった。
岡崎自身、中学時代に中国人を知り合えたことが、中国人を好きになるキッカケとなったこともあり、岡崎は積極的に若者たちの交流を後押しした。北京にある日中交流センター生んだのも岡崎であり、今まで何百人、何千人という中国人留学生が日本に行く橋渡しとなってきた。
周恩来その人も、若き日には2年間ほど日本に留学している。「雨中嵐山」という詩は、周恩来が日本を去る時に詠んだものである。
~雨濛々として 霧深く
陽の光 雲間より射して いよいよなまめかし
世のもろもろの真理は 求めるほどに模糊とするも
模糊の中に たまさかに一点の光明を見出せば
真にいよいよなまめかし~
この若き日の詩は、その後の日中関係を示唆しているかのようである。
雨が朦々と霧が深く、前途もなかった日中関係。その厚く暗い雲間から差し込んだ一条の光明。そこから真理が現れ、ついには国交正常化へと道は進む…。
◎中国古来の徳
周恩来と会ったアメリカ大統領ニクソンは、「上品で、並々ならぬ知性をそなえた繊細な人物」と周恩来を賞賛している。
あるジャーナリストは「周恩来は中国古来の徳としての優雅さ、礼儀正しさ、謙虚さを体現していた」と書いた。
周恩来の後を継いだ鄧小平は、「彼は同志と人民から尊敬された人物である」と語っている。
ある時、北京の料理店で食事をしていた周恩来は、店員の間で起こった「揉め事」の仲裁を買って出た。
双方の言い分を十分に聞いた周恩来、「どっちも悪い」と断を下した。「なんでだよ!」と気色ばむ店員。どちらも自分が悪いなどとは思っていない。
「お前さんたち、二人ともお客さんに料理を出すのを忘れているじゃないか」と周恩来。店員としての本分を忘れたことを気づかせたのであった。
この逸話もまた、のちの日中関係の修復を示唆しているかのようである。
日本も中国も、政治闘争に明け暮れている時代があった。しかし、政治家としての本分は? それは国同士を争わせることではなく、国民を食わせることではなかったか。
周恩来の英断は、その本質の筋に沿うことを決して忘れてはいなかったのである。
◎100回くらいでは分からない
1989年、岡崎嘉平太の訪中はじつに100回を数えた。
「中国のような奥深い国は、100回くらいでは分からない」。そう言う岡崎は、さも嬉しそうだった。
そして、その3ヶ月後、岡崎嘉平太は息を引き取る。92年の生涯であった。その棺には敬愛する周恩来お写真が添えられたという。
故郷の岡山県に眠る岡崎。その墓へお参りする中国人留学生は、今でも後を絶たない。
「素直な若いときにこそ、お互い知り合い、交流することが大切だ」と考えていた岡崎。彼の渡した日中交流の橋を行き来した留学生は数知れない。
岡崎奨学金で日本へ来た中国人留学生の一人は語る。「私たちのような普通の人の交流をもっと広げていきたいです。お互いが、どういう生活をしているのか、どんな違いがあるのか、それを知ることが大切だと思います」
◎井戸の水
中国に留学する日本人も、周恩来の生家を訪ね、その井戸を見る。
日中をつないだ井戸。それを掘った周恩来と岡崎嘉平太。そして、そこから湧いて出た水が、戦争でカラカラになっていた両国民の心を潤した。
「子どもたちの世代も、そして次の世代も、この水を枯らしてはいけない」と岡崎は常々言っていた。
「信は縦糸、愛は横糸、織りなせ人の世を美しく」
これは岡崎嘉平太の言葉である。
「この機織り(はたおり)作業の素晴らしさに目覚めるとき、新しい社会への道は、決して苦労などではなく、楽しい発見の営みになっていくのです。
より良い日本、より良いアジアの錦織をあとに続く人々に遺すこと、それが私の心からの願いなのです」
海を挟んで国境を接する日中両国、時には風波も立つだろう。
それでも、両国2000年の歴史のその大半が平和的であったことは、偉大なる事実である。
それは岡崎嘉平太や周恩来のような人々が、永い歴史に点在してくれていた、そのお陰でもあるのだろう…。
時おり、埋まりかける井戸。
それをますます埋めようとする人々もいるかもしれない。それでも、岡崎嘉平太は掘り続けた。上から泥をぶっかけられても…。
あれから40年。
今の日中関係に、岡崎ならば何を想い、何を成すのであろう?
この記事は、政治経済担当の知念敦による情報紹介です。
台湾有事に向けて、様々な動きがあります。
緊張高まる台湾の今 戦闘訓練受ける小学生も 統一は「当然」「それは中国の片思い」世代間で広がる意識の差 それでも平和願う「砲弾」の包丁づくり
4/4(火) 17:30
https://news.yahoo.co.jp/articles/4971c6b09ce94f1f8476049439875b9267d176ca?page=2
https://news.yahoo.co.jp/articles/4971c6b09ce94f1f8476049439875b9267d176ca?page=3
一方で、世界では、宗派の違いで数百年も争い続けたサウジアラビアがイランと国交正常化するなど、
世界情勢が変化しつつある中、日本も台湾有事の片棒を担がないよう、慎重に外交を続ける必要があります。
私は外交スタンスの参考としてとてもよい記事だと思いましたので、
サイトも探しにくかったので、全文掲載し紹介したいと思います。
こういう、井戸を掘り続けること、決して海外の人に対して威張らないことが大切だと思います。
どうか、特に、日本の為政者、官僚、官邸、政策決定者には読んで頂きたいと思います。
こういう誠実さや姿勢で、外交の土壌をつくったことを、ぜひ、今、リマインドしていただきたいと思います。
英考塾 不在文字、不離文字 というサイトから
2012年09月26日
岡崎嘉平太と周恩来。日本と中国をつないだ二人。
http://eikojuku.seesaa.net/article/294242919.html
「中国には、『水を飲むときには、その井戸を掘ってくれた人を忘れない』という言葉があります」
中国の元首相「周恩来」は、そう話し始めた。
時は今から40年前(1972)、戦争により国交を断絶していた日本と中国が、まさに国交を正常化させんとする、その2日前の夜のことである。それはすなわち、歴史的な「日中国交正常化」の前夜であった。
「まもなく田中角栄総理が中国に来られて、日中国交は正常化します。しかし、田中総理が来られたから国交が回復するのではありません。これまでの長い間、困難な時期にも日中間の友好に尽力された方々があったからこそ、正常化という念願が叶うのです」
日中国交正常化という「甘い水」が湧きいでたのは、それまでに汗を流して「井戸」を掘ってくれた人たちがいたからこそである、そう周恩来は言うのであった。
そして、その井戸を掘ってくれたと周恩来が感謝する人物、その一人が「岡崎嘉平太」であった。
◎暗黒の日中関係
「岡崎さんが今の中国と日本の様々な問題を知ったならば、間違いなく心配で、居ても立ってもいられなくなるでしょう」
岡崎嘉平太を心から尊敬するという、ある中国人はそんなことを言った。
岡崎の生きた時代は、日中関係が暗黒の時代。1894年の日清戦争、1937年からの日中戦争(第二次世界大戦)、そして日本の敗戦…。今とは比べようもないほど、日本と中国の関係は暴力的で険悪な状態が続いていた。
そんな交戦・断絶の関係の中、岡崎嘉平太は日中関係の改善に生命を賭け、そしてそれをまさかまさか、成し遂げたのである。
「隣りの国と、いつまでも敵対しているのはおかしい。主義の違う者の悪口を言って、蹴飛ばして済むか、そういうわけにはまいりません。いつかは友好親善をやらなきゃいかん。それは朝になれば東から太陽が昇るのと同じようなことなんです」
そうした信念を持っていた岡崎は、日本人と中国人がお互いを知り合うことが何よりも大切だと考えた。
「まず、相手を知る。とにかく行ってみる。向こうの人と直接会って、話をしてみる。そうすれば、戦争によって『カラカラに乾いてしまった感情』もいずれ戻ってくる」
生涯を通して、岡崎嘉平太は100回以上も中国へ足を運んでいる。まさに死ぬまで中国へ直接行き、中国人と会い、そして話をしてきたのであった。
◎中国人・留学生との出会い
岡崎嘉平太が初めて中国人と接したのは「中学時代」。日本にやって来ていた中国人・留学生との出会いであった。
親友となった中国人留学生の話はじつに面白い。中国の歴史、文化…、岡崎は大いに感銘を受けた。
ところが、戦争の時代は二人の仲を引き裂くことになってしまう。日本が中国と戦争を始めたため、国内には「中国人蔑視」の空気が充満することとなってしまう。
「オレはもう帰る!」
親友の中国人留学生はひどく腹を立てていた。「こんなイヤな日本だったら、来るんじゃなかった! 一日だっていたくない! 岡崎、君だけはオレに親切にしてくれたから、君だけに別れを言いにきた…」
そう告げるや、彼は本当に中国へと帰ってしまった。
多感な年頃であった岡崎は、この出来事に痛く傷ついた。
そして、それが生涯をかけた日中友好の道へと岡崎を駆り立てていく原点ともなった。
◎泥だらけの額
日本と中国が戦争をしていた間、岡崎には中国に8年間ほど暮らしていた時期があった。上海で国際銀行の理事を務めていたのである。
この中国暮らしの間、岡崎嘉平太の息子・彬(あきら)にとって、一生忘れられない出来事が起きる。
その事件は小さな出来事のはずだった。小学生だった彬が、中国人の子供にケガをさせたというのである。オモチャの空気銃で。
それを聞いた父親の嘉平太、とんでもなく怒った。あまり怒られたことのなかった彬は、すっかりビビってしまう。そして、そのまま嘉平太は何軒も何軒もケガをさせた中国人の子供の家を探し歩き、ようやくその子の家を見つけたときには、すっかり夜も更けていた。
いきなり土下座する父親・嘉平太、同じように彬にも土下座をさせて、泥んこの地面にガンガンと頭を打ちつける。
先方の親子はビックリ。日本の偉い人が、名もなき中国人家族に頭を下げまくっているのである。その額を泥だらけにしながら…。
「中国人を差別するな」。それが父親としての嘉平太が身を挺して示したことだった。
のちに敗戦で日本に引き上げることとなった岡崎一家、その後ろ姿に厳しい言葉を投げかける中国人は一人もいなかったという…。
◎貿易構想
1962年夏、岡崎嘉平太は日中間の大規模な「貿易構想」を提案。
「私の狙いは、中国にプラントを売って、その建設のため、日本の技師や労働者が中国に働きに行くことです。長ければ半年、少なくとも3~4ヶ月は向こうの中国人たちと一緒に働けば、戦争によってカラカラに乾いてしまった感情も戻ってくるかもしれません」
その年の秋、その案を携えた岡崎は、緊張しながら中国を訪問する。
その岡崎を待っていたのは、中国の周恩来首相。運命的な二人の出会いである。
周恩来は話し始める。「日清戦争以来、日本は我が国を侵略し、人民を傷つけ苦しめてきました。我々にはその深い恨みがあるのです」
なんとも手厳しい言葉、岡崎の身はますます堅くなる。ところが、周恩来の次の言葉は、岡崎の硬化していた心を一気に解きほぐしてくれた。
「恨みがあるといえども、中国と日本には2000年にわたる『友好の歴史』があります。戦争による不幸な歴史は、わずか数十年に過ぎないのです。我々は恨みを忘れようと努力しています。これからは中日が力を合わせて、アジアを良くしていこうではありませんか」
心打たれ、感極まる岡崎。すると周恩来、いきなり岡崎に問いかける。「岡崎さんはどう思われますか?」と。
岡崎は一瞬あわてるも、すかさず「刎頸の交わり」の故事を引き出した。一時は仲違いしていた二人が、友のためなら死も厭わぬ仲になったという物語である。
大きくうなずく周恩来。内心、岡崎の中国歴史古典に関する造詣の深さに感心し、そして共感していた。
この会談の成功を受け、岡崎の貿易構想は「日中総合貿易に関する覚書(LT貿易)」という形で現実化することとなる(1962年11月)。
日中両国間に正式な国交が結ばれる10年前、その道を切り拓くために、まずこの半官半民の貿易協定が結ばれたのである。
こうして、細いながらも初めて、両国間に和解の道が拓かれることとなった。
◎親友
「周総理と会っていると、偉い人と会って話しているような感じがしないんです。まったく、何十年来の友人と話しているような、そんな感じを醸す人でしたね」
のちに岡崎は周恩来の印象をこう語っている。
ある時、周恩来は岡崎に「歳」を尋ねた。すると、岡崎は自分よりも一つ年上だった。「じゃあ、あなたが兄だ」と周恩来。二人は兄、弟と呼び合うほどに、信頼し合うようになっいったのである。
こうした岡崎嘉平太と周恩来の親密さとは裏腹に、日本国内の状況は依然として厳しいものがあった。
まず、貿易協定に基づいて、日中双方に貿易事務所が置くことが決まったのだが、外務省は人材を派遣することを拒否。当時の日本は台湾の国民政府と外交関係を結んでいたため、岡崎が交渉を進める周恩来の中華人民共和国を国家として承認していなかったのである。
「いくらお国のためだって言ったってね、じゃあ、中国に行かされる奴はどうなるんだ? どうも、あんまり我が省(外務省)の利益にはなんねぇなぁ…」
次に岡崎が向かったのは通産省。やはり難色を示されるが、岡崎は粘る。通産省の渡辺弥栄司(やえじ)は次第に、岡崎の「先見の明」に感心していく。「これは、本物かもしらん…」。
岡崎の情熱にほだされた渡辺。思い切って人材を中国に派遣することを決め、のちに自らもスタッフの一員となる。
こうした貿易事務所に派遣された一人に、高向巌という人がいたが、彼は岡崎が口癖のように言っていた「事務はするな、中国人と触れ合え」という言葉を鮮明に記憶している。
「岡崎先生はね、ただ単に仕事をしてちゃダメだ。中国人と交わる、日本人が中国人を知る。中国人も日本人を知る。仕事での親しさではなく、『人と人としての親しさ』が大事だよ、と言っていました」
◎抗議
ようやく官を味方につけた岡崎嘉平太。しかし、国民からの抗議は激しさを増していった。
「もう、売国奴って罵られるわ、右翼団体から卵は投げつけられるわ、そりゃあ、大変な攻撃でしたね」と岡崎。
自宅にも脅迫電話が絶えず、巨大なトラックが何十台となく家を取り囲む。「岡崎っーー! 出て来ーーーーいっ!!!」と、ボリュームを目一杯にして。
警察官が家に泊まり込み、子どもたちはブルブルと震えていた。
岡崎の妻も覚悟を決めていた。母親としての彼女は怯える子どもたちに、こう諭した。「あんたたち、お父さんがもし急にいなくなっても、誇りを持ちなさい。お国のためになったんだから…」
抗議活動に揉みくちゃにされながら、岡崎は自宅を出て、空港へと向かい続けた。当然、周恩来との会談を重ねるためである。この激烈な抗議活動の中、岡崎はじつに18回も訪中している。
ある時、息子の彬は父親について中国へ行き、初めて周恩来と会った。その時、周恩来は静かに話しかけてきた。
「君のお父さんはね、たぶん自分のことを言わない。でも、私たち中国人は友のために生死をかけるような人を、本当に信頼するんだよ」
周恩来は続ける。「中国にいる私は、すごく安全だ。誰も私を殺そうとなどしない。でも、君のお父さんが日本に帰ると、ちょっと危ないんじゃないかな。それでも君のお父さんは、中日のために命を賭けてきたんだ。だから、私たちは信用しているんだよ」
◎唯一のパイプ
一部に猛烈な抗議を受け続けながらも、両国に設けられた貿易事務所は確実に機能していた。正式な国交がない中、それはあたかも両国の「大使館」であった。
日中間のあらゆる問題は、この貿易事務所を通して話し合われ、新聞やテレビの記者交換なども実現した。記者は常駐するようになり、日本人が中国を知り、中国人が日本を知るための貴重な情報を彼らが発信することになる。
時は共産主義下の中国、その情報は現在の北朝鮮のように、闇の中にあった中、少しずつその様子を日本人たちが伝え聞くようになっていた。
ところが、日中をつなぐこの唯一のパイプは、時の佐藤栄作政権により叩き折られそうになる。
周恩来の中華人民共和国と敵対する「台湾」を訪問した佐藤総理は、同じく周恩来と敵対するアメリカとともに、「中華人民共和国が『軍事的な脅威』である」との共同声明を発表。
中華人民共和国側が、それを「明確な敵視政策」と受け取り、日本に対して猛反発してきたのである。
◎粘り
時悪く、岡崎の貿易協定は、その5年契約が期限切れを迎え、新たな更新を必要としていた。
その交渉のテーブルは当然穏やかではない。中国側は佐藤政権を痛烈に批判。その誤りを文書で認めない限り、貿易協定の更新はできないと迫ってきたのである。
「決裂」だけは避けなければならないと心に決めていた岡崎嘉平太。粘りに粘り、議論に議論を重ねる。
その岡崎の胸中には、母の言葉が蘇っていた。「自分が譲れば事が丸く収まるときには、譲るものだよ」。子供時分の岡崎は「けんか太郎」、生一本で怒りっぽかった。母はそんな岡崎を心配し、繰り返し繰り返し「譲ること」を諭していたのである。
岡崎とともに交渉のテーブルについていた、田川誠一議員はこう振り返る。
「『切って帰っちゃえ!』って思うことが、あたしらには何度もありましたよ。その点、岡崎さんは練れてましたね。だから、大事なことは全部、岡崎さんにお任せしてました」
このパイプがいったん切れたら、二度とつなげられない、と岡崎は思っており、決して切ってなるものかと、粘り続けたのである。
その末に、ついに中国側も折れた。
過激な表現を柔らかく改めることにしぶしぶ同意し、妥協案を認めたのである。そして、交渉から一ヶ月後、なんとか日中覚書貿易という新たな協定を締結するに至る。
岡崎が身を挺して守った貿易協定は、辛うじて断絶という最悪の事態だけは避けられたのである。
しかし帰国後、岡崎は「中国に屈服した」という痛烈な批判にさらされることにもなる。
◎新たな風
逆風につぐ逆風の岡崎嘉平太。
その風向きが変わるのは1972年。最初の貿易協定から10年たった後のことであった。
この年、アメリカのニクソン大統領は中国を訪問。中華人民共和国は「国連」への加盟を認められ、国際社会への復帰を果たす。
このアメリカの政策変更を受け、当然日本もその潮目に乗ろうとする。しかし、日本政府には「ある懸念」があった。もし、中国との国交を回復しようとした場合、莫大な「戦争賠償金」を請求されるのではないか、という不安である。
日中唯一の窓口となっていた岡崎は、周恩来との会談の席上、戦争賠償金についての話を切り出す。
周恩来いわく、「今、日本に軍部があれば、我々は賠償金を請求したでしょう。しかし、もう日本に軍部はありません。そんな時、もし、我々が賠償金を請求すれば、同じく軍部に苦しんだ日本国民に負担を背負わせてしまうことになります。ですから、私は賠償金は取らないほうがいいと思います」
中国が国交正常化の条件として、戦争賠償金を持ち出すことはないという岡崎の貴重な情報は、日本を一気に正常化への道へと押し進めた。
1972年7月、中国で不人気が極まっていた佐藤内閣に代わり、田中角栄が新政権を発足させた。そして、その2ヶ月後には、中国への訪問が決まったのである。
◎ささやかな食事会
もはや、日中国交正常化は時間の問題であった。岡崎も自分の役割を一つ終えたと感じ、自宅で静かな日々を送っていた。
すると、そこに一本の電話がかかってきた。それは周恩来の命を受けた金光貞治からの電話であった。周恩来は、日中国交正常化が決まるその日に岡崎が招かれていないことに気づき、すぐにでも北京に来て欲しいと金光に頼んだのである。
電話口の岡崎、静かにゆっくりと「あぁ……、恐縮です……、恐縮です……」とだけ繰り返した。この短い言葉には、岡崎の喜びが噛みしめられていた…。
田中角栄総理が中国を訪問する2日前、周恩来は岡崎をもてなすために、一卓だけのささやかな食事会を開いた。
一言話したいと立ち上がる周恩来。「中国には『水を飲むときには、その井戸を掘ってくれた人を忘れない』という言葉があります」
「まもなく田中総理は中国に来られ、国交は正常化します。しかし、その井戸を掘ったのは岡崎さん、あなたです」
岡崎嘉平太と周恩来が初めて出会ってから、およそ10年。
岡崎が日本から引っ張ってきた「細い糸」は、いままさに、国と国とを結ぶ「太い絆」となって結実しようとしていた。
1972年9月29日、戦後27年目にして、ついに日本は中国と正式な国交を開くに至る。
◎友の死
それからわずか4年後、周恩来は78年の生涯を閉じる。死因となったガンが発見されたのは、奇しくも日中国交正常化が叶ったその年であった。
日本でその悲報を知った岡崎。その時からずっと口をきかなくなり、食事もノドを通らなくなってしまう。
「お父さん、かわいそうだった…、かわいそうだったよ…」、そんな言葉を息子の彬さんは母親から聞いた。そんな言葉を今まで聞いたこともなかったのに…。
しばらくして、岡崎嘉平太は周恩来の故郷、江蘇省淮安市の生家を訪れる。
その生家の一画にあった「井戸」。その井戸端で岡崎は涙をためていた。ずっと佇んだまま…。
「周総理、あなたこそ日中友好の井戸を掘った人だ…。今わたしたちが飲んでいる日中友好という水は、あなたが掘った井戸から湧いてきた水なんです…」
◎雨中嵐山
日中国交正常化が成った時、周恩来は「これからもずっと中国に来てください」と岡崎に声をかけていた。
その声に応えるように、岡崎は老齢になっても精力的に中国を訪れ続けた。そして、中国へ行くときは決まって「初めて中国に行く人」を日本から連れて行った。それは、少しでも多くの日本人に中国人を知ってもらいたい、という願いでもあった。
岡崎自身、中学時代に中国人を知り合えたことが、中国人を好きになるキッカケとなったこともあり、岡崎は積極的に若者たちの交流を後押しした。北京にある日中交流センター生んだのも岡崎であり、今まで何百人、何千人という中国人留学生が日本に行く橋渡しとなってきた。
周恩来その人も、若き日には2年間ほど日本に留学している。「雨中嵐山」という詩は、周恩来が日本を去る時に詠んだものである。
~雨濛々として 霧深く
陽の光 雲間より射して いよいよなまめかし
世のもろもろの真理は 求めるほどに模糊とするも
模糊の中に たまさかに一点の光明を見出せば
真にいよいよなまめかし~
この若き日の詩は、その後の日中関係を示唆しているかのようである。
雨が朦々と霧が深く、前途もなかった日中関係。その厚く暗い雲間から差し込んだ一条の光明。そこから真理が現れ、ついには国交正常化へと道は進む…。
◎中国古来の徳
周恩来と会ったアメリカ大統領ニクソンは、「上品で、並々ならぬ知性をそなえた繊細な人物」と周恩来を賞賛している。
あるジャーナリストは「周恩来は中国古来の徳としての優雅さ、礼儀正しさ、謙虚さを体現していた」と書いた。
周恩来の後を継いだ鄧小平は、「彼は同志と人民から尊敬された人物である」と語っている。
ある時、北京の料理店で食事をしていた周恩来は、店員の間で起こった「揉め事」の仲裁を買って出た。
双方の言い分を十分に聞いた周恩来、「どっちも悪い」と断を下した。「なんでだよ!」と気色ばむ店員。どちらも自分が悪いなどとは思っていない。
「お前さんたち、二人ともお客さんに料理を出すのを忘れているじゃないか」と周恩来。店員としての本分を忘れたことを気づかせたのであった。
この逸話もまた、のちの日中関係の修復を示唆しているかのようである。
日本も中国も、政治闘争に明け暮れている時代があった。しかし、政治家としての本分は? それは国同士を争わせることではなく、国民を食わせることではなかったか。
周恩来の英断は、その本質の筋に沿うことを決して忘れてはいなかったのである。
◎100回くらいでは分からない
1989年、岡崎嘉平太の訪中はじつに100回を数えた。
「中国のような奥深い国は、100回くらいでは分からない」。そう言う岡崎は、さも嬉しそうだった。
そして、その3ヶ月後、岡崎嘉平太は息を引き取る。92年の生涯であった。その棺には敬愛する周恩来お写真が添えられたという。
故郷の岡山県に眠る岡崎。その墓へお参りする中国人留学生は、今でも後を絶たない。
「素直な若いときにこそ、お互い知り合い、交流することが大切だ」と考えていた岡崎。彼の渡した日中交流の橋を行き来した留学生は数知れない。
岡崎奨学金で日本へ来た中国人留学生の一人は語る。「私たちのような普通の人の交流をもっと広げていきたいです。お互いが、どういう生活をしているのか、どんな違いがあるのか、それを知ることが大切だと思います」
◎井戸の水
中国に留学する日本人も、周恩来の生家を訪ね、その井戸を見る。
日中をつないだ井戸。それを掘った周恩来と岡崎嘉平太。そして、そこから湧いて出た水が、戦争でカラカラになっていた両国民の心を潤した。
「子どもたちの世代も、そして次の世代も、この水を枯らしてはいけない」と岡崎は常々言っていた。
「信は縦糸、愛は横糸、織りなせ人の世を美しく」
これは岡崎嘉平太の言葉である。
「この機織り(はたおり)作業の素晴らしさに目覚めるとき、新しい社会への道は、決して苦労などではなく、楽しい発見の営みになっていくのです。
より良い日本、より良いアジアの錦織をあとに続く人々に遺すこと、それが私の心からの願いなのです」
海を挟んで国境を接する日中両国、時には風波も立つだろう。
それでも、両国2000年の歴史のその大半が平和的であったことは、偉大なる事実である。
それは岡崎嘉平太や周恩来のような人々が、永い歴史に点在してくれていた、そのお陰でもあるのだろう…。
時おり、埋まりかける井戸。
それをますます埋めようとする人々もいるかもしれない。それでも、岡崎嘉平太は掘り続けた。上から泥をぶっかけられても…。
あれから40年。
今の日中関係に、岡崎ならば何を想い、何を成すのであろう?
この記事は、政治経済担当の知念敦による情報紹介です。